ゲノム編集と私たちの選択

ゲノム編集技術は自己認識をどう変えるか:遺伝性疾患とアイデンティティを考える

Tags: 遺伝性疾患, ゲノム編集, 自己認識, アイデンティティ, 倫理

はじめに:ゲノム編集技術が問いかける自己認識

ゲノム編集技術、特にCRISPR(クリスパー)という技術は、特定の遺伝子配列を正確に編集することを可能にしました。この技術は、これまで治療が困難であった遺伝性疾患に対して、新たな治療法の可能性をもたらすものとして大きな期待が寄せられています。

しかし、この革新的な技術は、単に病気を「治す」という医療的な側面に留まらず、私たち自身のあり方や、病気に対する自己認識、そしてアイデンティティといった、より個人的で深い側面に影響を与える可能性を秘めています。遺伝性疾患と共に生きてきた方が、この技術による「治る」可能性を知ったとき、どのような心理的な変化を経験するのでしょうか。そして、それは倫理的にどのような問いを投げかけるのでしょうか。

本記事では、ゲノム編集技術が個人の自己認識やアイデンティティに与える影響に焦点を当て、それに伴う倫理的な問いや、個人の意思決定における考慮事項について考えます。

「病気を持つ自分」という自己認識

多くの遺伝性疾患は、生まれつき持っている遺伝子の変化によって引き起こされます。そのため、疾患と共に成長し、病気が自身の体調、能力、そして日々の生活に与える影響を経験しながら、「病気を持つ自分」という自己認識を形成していくことがあります。病気が、個性のひとつであるかのように、自身のアイデンティティの一部として自然に受け入れられている場合もあります。

病気との向き合い方、それによって培われた経験や人間関係が、その人の内面や価値観に深く根ざしていることも少なくありません。例えば、病気を通じて得た人との繋がりの大切さや、自身の限界を受け入れながら工夫して生きる知恵などは、その人の人格形成に大きく影響している可能性があります。

ゲノム編集による「変化」がもたらす揺らぎ

このような「病気を持つ自分」という揺るぎない自己認識に対して、ゲノム編集技術は「病気の原因そのものを編集する」、つまり「病気がない状態」や「病気の影響が軽減された状態」になる可能性を提示します。これは、長年持ち続けてきた自己認識に、大きな変化や揺らぎをもたらす可能性を秘めています。

例えば、以下のような心理的な問いや葛藤が生じることが考えられます。

これは、単に身体的な状態が変わるという話ではなく、自身の根幹に関わる自己認識やアイデンティティが問い直される経験となり得ます。ゲノム編集技術は、希望をもたらすと同時に、こうした内面的な混乱や不安を引き起こす可能性も持っているのです。

倫理的な問い:どこまでが「治療」で、どこからが「自己の改変」か

ゲノム編集が自己認識に影響を与える可能性は、倫理的な問いも投げかけます。遺伝子の編集は、病気という「異常」を「正常」に戻す治療として捉えられることが一般的です。しかし、「病気であること」を単なる機能不全と捉えるか、あるいは人間の多様性の一部と捉えるかによって、ゲノム編集への見方は変わってきます。

もし、ある疾患がその人のアイデンティティと深く結びついている場合、それを「治す」ことは、その人の「自己」に対する介入とも捉えられかねません。どこまでを「治療」と見なし、どこからを個人のアイデンティティや特性に対する「改変」と見なすべきか、その線引きは容易ではありません。

また、社会が「正常であること」に価値を置きすぎるあまり、病気を持つ人々に対して、ゲノム編集による「改善」や「治療」を選択するよう暗黙の圧力をかけるような状況が生じる可能性も倫理的な懸念事項です。個人の意思決定は、本人の自律性が尊重されるべきであり、他者や社会の価値観に過度に影響されるべきではありません。

意思決定のための考慮事項とサポート

ゲノム編集技術が自身の自己認識やアイデンティティに影響を与える可能性を考慮に入れながら、情報に基づいた倫理的な意思決定を行うためには、いくつかのステップが考えられます。

  1. 内面的な探求: まず、ゲノム編集の可能性を知って、ご自身の中でどのような感情や考えが生まれているのか、じっくりと内省する時間を持つことが大切です。「病気を持つ自分」をどのように捉えているのか、「病気がない状態の自分」をどのように想像するのか、その変化に対してどのような希望や不安を抱くのか、といった自身の内面を正直に見つめ直します。
  2. 専門家との対話: 遺伝カウンセラーや、遺伝性疾患に詳しい医師、心理士といった専門家との対話は非常に有益です。彼らは技術に関する正確な情報を提供するだけでなく、患者さんやご家族が抱える感情や倫理的な葛藤について、傾聴し、共に考えることをサポートしてくれます。自身の自己認識やアイデンティティに関する懸念についても、遠慮なく相談することが重要です。
  3. 仲間や家族との共有: 同じ疾患を持つ仲間や、理解ある家族と感情や考えを共有することも、心の整理につながることがあります。同じような経験をしている人の話を聞いたり、自身の悩みを打ち明けたりすることで、新たな視点を得たり、孤独感を和らげたりすることができます。
  4. 多様な選択肢と不確実性の理解: ゲノム編集だけが唯一の選択肢ではありません。既存の治療法、対症療法、そして病気と共に生きるという選択肢もあります。また、ゲノム編集技術自体もまだ発展途上であり、効果や安全性には不確実性も存在します。これらの多様な選択肢と、それぞれの不確実性について理解を深めることが、より納得のいく意思決定につながります。

意思決定は一度に行う必要はありません。時間をかけて、ご自身のペースで、様々な可能性や感情と向き合うプロセスが大切です。

まとめ:技術の可能性と自己との向き合い

ゲノム編集技術は、遺伝性疾患に対する革新的なアプローチを可能にする一方で、私たちの自己認識やアイデンティティといった、より根源的な部分に影響を与える可能性を秘めています。技術の進歩を理解することは重要ですが、それと同じくらい、あるいはそれ以上に、技術が自分自身のあり方や価値観にどう影響するのか、という内面的な問いと向き合うことが重要です。

ゲノム編集を巡る意思決定は、単に医療的な判断だけでなく、自己とは何か、病気とは何か、そして自分にとって真に大切なものは何か、という倫理的・哲学的な問いと向き合うプロセスでもあります。この複雑な道のりを歩む際には、信頼できる情報源からの知識、専門家からのサポート、そしてご自身の内なる声に耳を傾ける静かな時間が、きっと役立つでしょう。技術の可能性と、揺るぎない自己との向き合いを通じて、情報に基づいた、ご自身にとって最善の選択を見つけていくことが期待されます。