遺伝性疾患とゲノム編集:治療以外の道、多様性の尊重と倫理的な選択
ゲノム編集技術、特にCRISPR-Cas9システムは、遺伝子の特定の場所をピンポイントで操作できる可能性を秘めており、遺伝性疾患の根本的な治療法として大きな期待が寄せられています。原因となる遺伝子を修復したり、機能を補完したりすることで、これまで治療が難しかった疾患に対して新たな希望をもたらすかもしれません。
しかし、この技術の登場は、「遺伝性疾患とどう向き合うか」という問いを、技術的な側面だけでなく、倫理的、社会的な多様性の側面からも深く考え直すきっかけを与えています。ゲノム編集による「治療」という選択肢がある中で、あるいは将来的に利用可能になったとして、必ずしも「治療する」ことだけが唯一の、あるいは最良の道なのでしょうか。
遺伝性疾患を「治療すべきもの」と捉えることの問い直し
遺伝性疾患は、その原因が遺伝子の変化にあるため、多くの場合、生涯にわたって影響を及ぼします。医療や支援は、症状の軽減や進行の抑制、Quality of Life(生活の質)の維持・向上を目指して行われます。ゲノム編集技術は、さらに進んで「原因そのもの」に介入しようとするものです。
ここで立ち止まって考えたいのは、遺伝性疾患を持つことをどのように捉えるか、という点です。医学的には「疾患」として定義され、治療の対象となりますが、同時に、その疾患を持つことがその人のアイデンティティの一部となっている場合もあります。特定の遺伝的特徴を持つことが、その人の能力や感じ方、あるいはコミュニティとのつながりに影響を与えている可能性もあります。
社会全体で「障害」や「多様性」に対する理解が深まる中で、遺伝性疾患を持つことを、単に「治すべき問題」としてだけではなく、人間の多様なあり方の一つとして捉える視点も重要視されるようになっています。このような視点に立つと、ゲノム編集による「治療」が常に歓迎されるべきものなのか、あるいは唯一目指すべき方向なのか、という倫理的な問いが生まれます。
「治療以外の道」を選ぶことの意味
ゲノム編集技術が存在する、あるいは将来的に利用可能になったとしても、遺伝性疾患を持つ人やその家族が「治療しない」という選択をすることは十分に考えられますし、倫理的に許容されるべき意思決定です。この「治療以外の道」を選ぶ背景には、様々な理由があり得ます。
例えば、
- 技術的な不確実性やリスクへの懸念: まだ新しい技術であり、予期せぬ副作用や長期的な影響が不明であることから、リスクを避けたいと考える場合があります。
- 既存の医療やケアでQOLが維持できている: 現在利用可能な対症療法、リハビリテーション、支援サービスなどで十分な生活の質が得られている場合、リスクを冒してまでゲノム編集治療を選択する必要性を感じないかもしれません。
- 疾患がアイデンティティの一部である: 疾患を持つことが自己認識やコミュニティとのつながりに深く関わっており、「治す」ことが自己の否定につながると感じる場合があります。
- 経済的、心理的な負担: 高額な治療費や、治療プロセスに伴う身体的・精神的な負担を考慮し、選択しない場合があります。
- 障害受容のプロセス: 疾患や障害を受け入れ、それと共に生きる道を選択した場合、必ずしも「治す」ことに価値を見出さないことがあります。
これらの理由は、「治療を諦める」といった消極的なものではなく、多くの場合、疾患や自己、そして人生に対する情報に基づいた、積極的で倫理的な意思決定の結果として現れます。
意思決定における多様性の尊重
ゲノム編集技術に関する意思決定は、科学技術の進歩、医学的な判断、そして個人の価値観や倫理観が複雑に絡み合います。遺伝性疾患を持つ当事者やその家族が、どのような選択をするかは、最終的には彼ら自身の自己決定権に基づいて行われるべきです。
この意思決定プロセスでは、以下のような要素を考慮することが重要です。
- 正確で十分な情報提供: ゲノム編集技術の可能性だけでなく、限界、リスク、代替となる治療法や支援に関する情報が、非専門家にも理解できるよう丁寧に提供される必要があります。
- 専門家との対話: 医師、遺伝カウンセラー、心理士などの専門家と、技術的な側面、医療的な見込み、心理的な側面、そして倫理的な懸念について開かれた対話を行うことが助けとなります。
- 家族や関係者との話し合い: 家族内で価値観を共有し、それぞれの思いや懸念を話し合う時間は非常に大切です。
- 多様な選択肢の提示: ゲノム編集治療だけでなく、既存の治療・ケア、経過観察、障害に応じた環境整備、ピアサポートなど、様々な選択肢とそのメリット・デメリットを提示し、多角的に検討できるようにサポートすることが求められます。
社会全体としても、ゲノム編集技術がもたらす可能性に目を向けつつも、遺伝性疾患を持つ人々の多様なあり方や、治療以外の選択を尊重する包容力を持つことが重要です。技術が提供する「治す」という道だけでなく、疾患と共に生きる人々が自分らしく、尊厳を持って暮らせるような社会的な支援や環境整備にも、等しく、あるいはそれ以上に力を入れるべきかもしれません。
まとめ
ゲノム編集技術は遺伝性疾患に対する新たな希望をもたらしますが、それが全ての問題を解決する魔法の杖ではありません。遺伝性疾患を持つことの意味、個人の価値観、そして社会における多様性の尊重といった、より広い視点からゲノム編集を考える必要があります。
「治療以外の道」を選択することは、技術的な限界やリスクを考慮した現実的な判断であると同時に、自己のアイデンティティやQOL、あるいは障害受容といった個人的・倫理的な価値観に基づいた、主体的な意思決定です。
私たち一人ひとりが、ゲノム編集技術に関する情報を集め、その可能性と限界を理解した上で、自分自身や家族にとって何が最も大切なのかを深く考え、多様な選択肢の中から、倫理的な観点も踏まえて最適な道を選択していくことが求められています。そして、どのような選択であれ、それが尊重される社会であることが望まれます。